精訳「日本人が変えた未開の島―台湾」―台湾でも話題となった百年前のニューヨーク・タイムズ記事(付:チャンネル桜の解説番組動画)
2009/07/20/Mon
NHK「JAPANデビュー」が日本の台湾統治史を台湾人抑圧・弾圧・殺戮の歴史と描いて問題になる中、ネット上では約百年前の「ニューヨーク・タイムズ」に掲載された記事が話題になっている。
記事のタイトルは「日本人が変えた未開の島―台湾」。日本統治下に組み込まれた台湾の近代化状況を伝えている。一九〇四年九月二十四日付の記事だから、一八九五年の日本の台湾領有から九年目のものだ。

一九〇四年とは、「JAPANデビュー」の語る歴史によれば、日本が住民殺戮の「日台戦争」を経て、後藤新平民政長官の「匪徒刑罰令」で三千人の住民を殺し終えた翌年である。
実際には殺戮したのは土匪(山賊)集団など武装反抗勢力。治安確立のためだったが、あの番組を見る限り、一九〇四年の台湾はなお殺伐とした暗黒社会であるかと想像してしまう。
そこで重要になるのが、外国人特派員による当時のレポートだ。そこには番組が決して語ろうとしなかった歴史の側面がはっきりと語られている。
実はこのレポートは今から二年前、台湾でも原文や漢文訳が、台湾独立派などの複数のブログに掲載され、ずいぶん話題になっていた。私も昨年、台湾人の友人から「日本の総督府の功績に関する驚くべき内容だ」と推薦され、読んだことがあった。
なかには当時の写真も掲載しながら二ヶ国語で記事を紹介する手の込んだブログもあった(ブログ「年糕料理館」)。
こうしたものを話題にできる台湾人の感性は、やはり中国人や韓国人とは違うなと思ったことだった。
【参考】「年糕料理館」―百年前的台灣報導
http://blog.roodo.com/gamy543/archives/4280905.html
そこでここでもその手法を真似、それら写真を拝借しつつ、日本語訳を掲載したい。これは東郷勇策氏と尾形美明氏による精訳である。
重要なポイントはレポート末尾の「1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加している」と言うくだりではないだろうか。
これは日本の施策により、治安が確立され(土匪集団の解体によるところ大)、近代的な法治社会、産業社会が現出し、衛生医療環境が改善され、食糧が増産された結果、住民の生存環境が著しく改善された結果ことを示すものだ。
なお、ここで見られる「原住民」とは、今日「原住民」と呼ばれる高砂族だけではなく、それ以外の平地住民を含む。
※「註」は訳者。
日本人が変えた未開の島「台湾」
他国家が征服できなかった民族と共に数年間で成し遂げた驚異の数々-他の植民地主義国家への教訓
1904年9月24日、ロンドン。本日のNY・タイムズ紙は特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載する。
如何なる事業においても、成功するには、生来の能力、綿密な対応そして経験の3要素が必要である。植民地経営の事業もこの例外ではない。ドイツは綿密な対応にも拘わらず、生来の能力不足からか或いは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗した。
しかし、ドイツの不成功の原因として最も考えられるのは、如何なる事業でも最初の試みは通常は失敗に終わるということであろう。
この理由から、植民地化という日本の最初の試みは格別に興味深い。特に、正確にはいわゆる最初の日本の植民地である台湾島には、過去、他の国々が克服できないように見えた植民地化上の困難があったからである。台湾島は、シナやその他様々な国からの無法者がずっと好んで跋扈しており又、野蛮さ、無法性の人口比率がかなり高い為に、数度も侵略されながらも植民地化されたことはなかった。
(註:清朝は、台湾は鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女、とまで蔑んだ)
スペインやオランダは台湾の植民地化を試みたが、絶望の内に断念した。
シナは島を事実上の荒れ地に放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうが、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはなかった。
未開原住民の懐柔・開化
そこで、1894~1895年の日清戦争の終結後に日本が台湾を要求した際、シナは日本への台湾割譲を喜ばないまでも快くそれに応じた。李鴻章は、「日本はその内に“この島はとんでもない悪い買い物であった”と気付くであろう」と、皮肉っぽく論評した。
(註:清とは清朝で、女真族、満州族の王朝である。この王朝では漢民族つまりシナ人は被征服者であった。)
日本が台湾に入った時、沿岸は海賊のなすがままの状態であった。奥地の一部は野蛮な原住民によって、一部は難破船を分捕りそして島に辿り着いた船員を殺害した無法者や盗賊の集団によって支配されていた。台湾がシナ領であった間、このような外国船船員に対する殺戮攻撃が原因の騒擾が米国や他の国々との間に屡々生じた。
この島の征服には1年を要した。1896年3月31日に台湾は文民行政下に置かれた。しかし、先のシナ時代の同島管轄者である武官や官僚がその地位を追われることを恐れ、同島の無法集団と手を結び、新しい支配者に対する反乱を扇動したことから、軍の掃討活動によって遂に反乱分子を一掃した1901年末まで、同島は常に不安定且つ混乱した状態が続いた。
法令施行に於ける寛容さ
台湾が日本の法政の下で完全な平和を享受してきたのはこれまでの僅か2~3年であるが、同島の様相や以前は未開の民であった原住民の心持ちは既に全く変わっており、彼等は日本法政の息吹を理解し始め、それを賞賛し始めている。
日本が顕著な成功を収めている政策は次のようなものである。
日本が可能な限り住民の伝統的風俗(先入観)に敬意を表し、文明の路を強要するよりは寧ろ穏やかに指導することを心がけた。
例えば、武装山賊の不意の襲撃や火災、洪水、その他自然災害から住民を守るべく古来シナが創設した“平和兵団” (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持されたが、同時に日本の進歩的な法律が導入された。
(註:この組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えた)
しかし、これらの法律は同島在住の日本人に対しては完全に適用されたが、文明度不足から、文化的条件や法律の尊重(それによって文明は支えられる)の必要性に直ちに対応できない土着住民に対しての適用は、緩和された。
阿片常用者の治療(漸禁策)
阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪であるが、原住民は阿片常用癖を認められてきている限りにおいて阿片消費を罰せられない。しかし日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法に則って徐々に阿片消費量を減少させる目的で阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも阿片吸引の許容にも又同時に抑制にも利用した。
公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみそれを確保できる。政府は、阿片供給をコントロールしながら認可エージェントを通して阿片を登録吸飲者へ分け与え、そして警察は、最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視する。
同時に、負わねばならない道義上のプレッシャーが出てくる。医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常に指摘しなければならないし又、教師は皆、阿片常用者の不法性及びそれがもたらすモラル低下作用を子供達に警告しなければならない。
同島の人口は現在ざっと300万人、1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者であった。1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていた。17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いはない。
1900年に3,392,602円であった阿片輸入額が1903年には1,121,455円に過ぎなくなったことは、大きな変化である。財政収入の観点からは台湾での阿片使用抑制策は明らかに好ましくない。というのは、国家にとってこれが意味するものは、一面で深刻な収入減、反面で阿片吸飲者の管理・監視のための経費増であるからである。
(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。尚、1905年、台湾には纏足婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)
日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力している一方で、彼等のあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明している。最初の段階で、遵法者の料金徴収者が強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることは最早なくなり、公正な政府の下で自由を謳歌する。次の段階では、社会福祉面で多くのことがなされている。
台湾はこれまで伝染病にかなり苦しんできた。それは、澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する、極めて質の悪い水が主な原因であった。そこで日本人は、浄水の供給を始めた。台湾で掘られた井戸の総数は不明だが、総人口の10分の1が住む台北地域だけでも800以上の井戸が堀り抜かれた。
(註:台北の上下水道システム敷設は、東京よりも早かった。功労者はイギリス人のウイリアム・バルトンとその愛弟子である浜野弥四郎。バルトンがマナリアで倒れると、その遺志を継いだ浜野は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げた。)

素晴らしい学校制度の開始
教育は、あらゆる進歩の基本であり且つ出発点である。日本は、台湾に素晴らしい教育制度を導入している。60名の教師と2,000人の生徒を抱える日本人用の学校が存在する中、原住民用の初等科学校130校が存在し、そこでは521名の教師スタッフが18,149人の児童を文明化された存在に変えるべく教育に携わっている。
しかし日本は、原住民に対する初等教育の提供で満足している訳ではない。
というのは、与え得る最善のものを台湾に与えるという志を持つからである。そこで、日本は原住民が利用できる医学学校、日本語学校、教員養成学校を設立している。
台湾での医学学校には、中国系の学生に対して現代科学の一般課程及び医学の実習を提供する極東で唯一の学校であるという重要な特徴がある。学校は台北に存在し、現時点で約150名の学生が有能な日本人教授達の指導の下で医学を学んでいる。

日本語学校には二つの役割がある。その目的は原住民の間に日本語を広めることであるが、同時に、日本人に現地語を学ぶ機会を提供することで彼等が奥地で先生・通訳として活動できる準備をすることでもある。
(註:中国国民党軍が1945年に台湾を占拠後、彼等は全ての現地語の使用を禁止し、北京語の使用を強制した。これは、時効の無い戦争犯罪行為であり、日本の施策とは大きな違いがある。日本語の役割は、①共通語を持つことと、②近代科学や技術、医学、哲学、文学、宗教などを学ぶ手段として不可欠であった。つまり、西欧近代文明を取り入れた日本語教育がなければ台湾の近代化は不可能であった。総督府は教育不毛の地を教育先進地域にしたのである。)
個人の幸福感は、安全、暴虐からの自由、身体的な安寧によるだけではなく、経済的な繁栄にもよる。そこで、日本は、新植民地の繁栄増進をもその目的としている。
鉄道網の構築
日本が台湾の割譲を受けた際に道路は存在しなかったが、変な話ながら、粗末な建造且つ貧弱な運営で殆ど役に立たない、短距離鉄道が存在した。鉄道運賃や貨物運送はほぼ毎日変更される他、都合の良い時だけの列車運航であった。
日本は、台湾が基本的に求めるものを理解し、島の多くの地域に組織的な道路建設を始めており、米国領事の最近のレポートによると既に1,000マイル以上の道路が建設されている。日本政府は同時に包括的な鉄道制度を精密に企画し、28,800,000円(ほぼ3,000,000ポンド)の予算を計上しているが、これは日本のような国にとっては殆ど信じがたいような金額である。

日本人が台湾でその存在を見た鉄道は既に完全に建造され直され又、新竹-高尾間の新線建設が両ターミナルから同時に全力投球で始まっている。1897年から1903年の間に95マイルの線路が敷設され、37の駅が建造され、210輌の貨車及び客車、機関車20輌が導入された。
この期間に、運送旅客数は4倍にそして輸送貨物量は10倍に伸びた。加えて、軽便鉄道が導入され、125マイルの線路が2~3ヶ月で敷設された。更に52マイルの軽便鉄道が間もなく建設される。

郵便、電信、電話も既に導入され大きな成功を収めている。1896年から1902年の間に一般大衆向け郵便局87局が島中に開設され、1902年には13,285,105通の封書・ハガキ及び114,779個の小包を取り扱い、336,207件の国内為替を発行した。電信の距離は1896年の900マイルから1902年には2,600マイルに伸び又、1,350マイルの電話線が敷設され1902年には3,690,228件の通話が行われた。

日本人が入る前から続いていた台湾の地元産業は、殆ど満足できない形で続行された。実り豊かな土地の耕作法は、科学的なものばかりか伝統的・絶対的なものでさえ、知られていなかった。原住民は主として人の手が加わっていない自然の恵みに依存した。台湾の農民は米の二期作や三期作さえも享受しながらも、収穫は労苦に見合ったものではなく、収入も全く不十分なものであった。
日本人が導入した改良手法を通じて、1896年から1902年の間の米の生産量は10%伸びている。同じ期間のお茶の生産量は5倍となり又、砂糖、甘藷、サトウキビ、ラミー麻、黄麻、ウコンなどその他主要農産物もかなり大きな伸びを見せている。

(註:この後、バルトンの教え子である八田与一による烏山頭ダム建設と嘉南大洲の沃野開発、磯永吉・永末仁の12年もの地道な努力から生まれた画期的な蓬莱米などの品種改良、新渡戸稲造博士による製糖業の大改革など、更なる発展がある。「飢餓の島」は一大食料輸出地に変貌した。)
広大な森林の利用も不十分であった。原住民はそれほど不経済であり、例えば楠から樟脳を取り出す際に得られた樟脳油を、地元の精製者は廃物として取り扱った。日本人が導入した改革の結果、樟脳の生産は1897年の1,534,596斤から1903年には3,588,814斤へと着実に増え、樟脳油の産出も1897年の638,603斤から1903年には2,670,561斤へと伸びた。
鉱業も同様に最も浅薄で且つ不明意なやり方で継続されたため、最大限の労力を費やしながら最小限の結果しか産まれなかった。
忍耐強い指導と穏やかな主張により、日本人はあらゆる産業において改良手法の導入に成功している。農業収穫はより良くなり、森林は科学的に開発され、数百万本の楠の若木が適地に植林され、そして鉱業は直近の2~3年間で大きな進歩を遂げている。
銀行・通貨制度
台湾の貿易や産業の改善の結果、銀行機関や通貨制度の改善が必要であることが自ずと明らかになった。その結果、この島の中央銀行機関として台湾銀行が創立され又、より重要な中心部に民間銀行の事務所が開設された。

郵便貯蓄銀行も開設され、かなり満足のゆく成功を収めている。預金者数は1896年の5,847人から1902年には41,145人に、預金額は1806年の228,487円から1902年には763,575円に増大した。
台湾通貨も改革を必要とした。台湾は、ずっとシナと全く同じく為替の媒体が硬貨ではなく金塊の国であった。扱いにくい大きな銅貨のせいで、どんな規模の商業取引であれ殆ど不可能であった。今では、日本の最新の貨幣制度がこの大昔の貨幣制度に取って代わっている。
日本はお金を湯水のように台湾に注ぎ込んだ。粗糖、白糖、硝子、紙などの生産工場を創設し、最も優秀な人材を管理者として送り込んでいる。疑いもなく日本は、その開けた政策に対する報酬を然るべき時期に受け取るであろう。
この島が完全に鎮圧されてから僅か2~3年が経過したばかりながら、既に達成された、おきまりの経済発展は、大変に著しい。住民の繁栄の増大は、基本的に政府の仕事や事業、阿片専売、関税や種々の税金に由来する総合歳入が1896年の2,711,822円から1903年の12,738,587円へとほぼ10倍に拡大していることから、見て取れよう。

主として土地・家屋や事業などへの課税で構成される地方の通常歳入は、1898年の747,850円から1902年には1,952,220円へと伸び、4年でほぼ3倍となった。一般課税及び地方課税の徴収において、これらの輝かしい成果を達成するための不当な圧政が行われたことは、これまでにない。
従って、台湾の人口がその資源開発と共に急増していることは、正に当然である。1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加している。
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記事のタイトルは「日本人が変えた未開の島―台湾」。日本統治下に組み込まれた台湾の近代化状況を伝えている。一九〇四年九月二十四日付の記事だから、一八九五年の日本の台湾領有から九年目のものだ。

一九〇四年とは、「JAPANデビュー」の語る歴史によれば、日本が住民殺戮の「日台戦争」を経て、後藤新平民政長官の「匪徒刑罰令」で三千人の住民を殺し終えた翌年である。
実際には殺戮したのは土匪(山賊)集団など武装反抗勢力。治安確立のためだったが、あの番組を見る限り、一九〇四年の台湾はなお殺伐とした暗黒社会であるかと想像してしまう。
そこで重要になるのが、外国人特派員による当時のレポートだ。そこには番組が決して語ろうとしなかった歴史の側面がはっきりと語られている。
実はこのレポートは今から二年前、台湾でも原文や漢文訳が、台湾独立派などの複数のブログに掲載され、ずいぶん話題になっていた。私も昨年、台湾人の友人から「日本の総督府の功績に関する驚くべき内容だ」と推薦され、読んだことがあった。
なかには当時の写真も掲載しながら二ヶ国語で記事を紹介する手の込んだブログもあった(ブログ「年糕料理館」)。
こうしたものを話題にできる台湾人の感性は、やはり中国人や韓国人とは違うなと思ったことだった。
【参考】「年糕料理館」―百年前的台灣報導
http://blog.roodo.com/gamy543/archives/4280905.html
そこでここでもその手法を真似、それら写真を拝借しつつ、日本語訳を掲載したい。これは東郷勇策氏と尾形美明氏による精訳である。
重要なポイントはレポート末尾の「1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加している」と言うくだりではないだろうか。
これは日本の施策により、治安が確立され(土匪集団の解体によるところ大)、近代的な法治社会、産業社会が現出し、衛生医療環境が改善され、食糧が増産された結果、住民の生存環境が著しく改善された結果ことを示すものだ。
なお、ここで見られる「原住民」とは、今日「原住民」と呼ばれる高砂族だけではなく、それ以外の平地住民を含む。
※「註」は訳者。
日本人が変えた未開の島「台湾」
他国家が征服できなかった民族と共に数年間で成し遂げた驚異の数々-他の植民地主義国家への教訓
1904年9月24日、ロンドン。本日のNY・タイムズ紙は特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載する。
如何なる事業においても、成功するには、生来の能力、綿密な対応そして経験の3要素が必要である。植民地経営の事業もこの例外ではない。ドイツは綿密な対応にも拘わらず、生来の能力不足からか或いは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗した。
しかし、ドイツの不成功の原因として最も考えられるのは、如何なる事業でも最初の試みは通常は失敗に終わるということであろう。
この理由から、植民地化という日本の最初の試みは格別に興味深い。特に、正確にはいわゆる最初の日本の植民地である台湾島には、過去、他の国々が克服できないように見えた植民地化上の困難があったからである。台湾島は、シナやその他様々な国からの無法者がずっと好んで跋扈しており又、野蛮さ、無法性の人口比率がかなり高い為に、数度も侵略されながらも植民地化されたことはなかった。
(註:清朝は、台湾は鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女、とまで蔑んだ)
スペインやオランダは台湾の植民地化を試みたが、絶望の内に断念した。
シナは島を事実上の荒れ地に放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうが、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはなかった。
未開原住民の懐柔・開化
そこで、1894~1895年の日清戦争の終結後に日本が台湾を要求した際、シナは日本への台湾割譲を喜ばないまでも快くそれに応じた。李鴻章は、「日本はその内に“この島はとんでもない悪い買い物であった”と気付くであろう」と、皮肉っぽく論評した。
(註:清とは清朝で、女真族、満州族の王朝である。この王朝では漢民族つまりシナ人は被征服者であった。)
日本が台湾に入った時、沿岸は海賊のなすがままの状態であった。奥地の一部は野蛮な原住民によって、一部は難破船を分捕りそして島に辿り着いた船員を殺害した無法者や盗賊の集団によって支配されていた。台湾がシナ領であった間、このような外国船船員に対する殺戮攻撃が原因の騒擾が米国や他の国々との間に屡々生じた。
この島の征服には1年を要した。1896年3月31日に台湾は文民行政下に置かれた。しかし、先のシナ時代の同島管轄者である武官や官僚がその地位を追われることを恐れ、同島の無法集団と手を結び、新しい支配者に対する反乱を扇動したことから、軍の掃討活動によって遂に反乱分子を一掃した1901年末まで、同島は常に不安定且つ混乱した状態が続いた。
法令施行に於ける寛容さ
台湾が日本の法政の下で完全な平和を享受してきたのはこれまでの僅か2~3年であるが、同島の様相や以前は未開の民であった原住民の心持ちは既に全く変わっており、彼等は日本法政の息吹を理解し始め、それを賞賛し始めている。
日本が顕著な成功を収めている政策は次のようなものである。
日本が可能な限り住民の伝統的風俗(先入観)に敬意を表し、文明の路を強要するよりは寧ろ穏やかに指導することを心がけた。
例えば、武装山賊の不意の襲撃や火災、洪水、その他自然災害から住民を守るべく古来シナが創設した“平和兵団” (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持されたが、同時に日本の進歩的な法律が導入された。
(註:この組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えた)
しかし、これらの法律は同島在住の日本人に対しては完全に適用されたが、文明度不足から、文化的条件や法律の尊重(それによって文明は支えられる)の必要性に直ちに対応できない土着住民に対しての適用は、緩和された。
阿片常用者の治療(漸禁策)
阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪であるが、原住民は阿片常用癖を認められてきている限りにおいて阿片消費を罰せられない。しかし日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法に則って徐々に阿片消費量を減少させる目的で阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも阿片吸引の許容にも又同時に抑制にも利用した。
公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみそれを確保できる。政府は、阿片供給をコントロールしながら認可エージェントを通して阿片を登録吸飲者へ分け与え、そして警察は、最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視する。
同時に、負わねばならない道義上のプレッシャーが出てくる。医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常に指摘しなければならないし又、教師は皆、阿片常用者の不法性及びそれがもたらすモラル低下作用を子供達に警告しなければならない。
同島の人口は現在ざっと300万人、1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者であった。1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていた。17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いはない。
1900年に3,392,602円であった阿片輸入額が1903年には1,121,455円に過ぎなくなったことは、大きな変化である。財政収入の観点からは台湾での阿片使用抑制策は明らかに好ましくない。というのは、国家にとってこれが意味するものは、一面で深刻な収入減、反面で阿片吸飲者の管理・監視のための経費増であるからである。
(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。尚、1905年、台湾には纏足婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)
日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力している一方で、彼等のあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明している。最初の段階で、遵法者の料金徴収者が強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることは最早なくなり、公正な政府の下で自由を謳歌する。次の段階では、社会福祉面で多くのことがなされている。
台湾はこれまで伝染病にかなり苦しんできた。それは、澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する、極めて質の悪い水が主な原因であった。そこで日本人は、浄水の供給を始めた。台湾で掘られた井戸の総数は不明だが、総人口の10分の1が住む台北地域だけでも800以上の井戸が堀り抜かれた。
(註:台北の上下水道システム敷設は、東京よりも早かった。功労者はイギリス人のウイリアム・バルトンとその愛弟子である浜野弥四郎。バルトンがマナリアで倒れると、その遺志を継いだ浜野は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げた。)

素晴らしい学校制度の開始
教育は、あらゆる進歩の基本であり且つ出発点である。日本は、台湾に素晴らしい教育制度を導入している。60名の教師と2,000人の生徒を抱える日本人用の学校が存在する中、原住民用の初等科学校130校が存在し、そこでは521名の教師スタッフが18,149人の児童を文明化された存在に変えるべく教育に携わっている。
しかし日本は、原住民に対する初等教育の提供で満足している訳ではない。
というのは、与え得る最善のものを台湾に与えるという志を持つからである。そこで、日本は原住民が利用できる医学学校、日本語学校、教員養成学校を設立している。
台湾での医学学校には、中国系の学生に対して現代科学の一般課程及び医学の実習を提供する極東で唯一の学校であるという重要な特徴がある。学校は台北に存在し、現時点で約150名の学生が有能な日本人教授達の指導の下で医学を学んでいる。

日本語学校には二つの役割がある。その目的は原住民の間に日本語を広めることであるが、同時に、日本人に現地語を学ぶ機会を提供することで彼等が奥地で先生・通訳として活動できる準備をすることでもある。
(註:中国国民党軍が1945年に台湾を占拠後、彼等は全ての現地語の使用を禁止し、北京語の使用を強制した。これは、時効の無い戦争犯罪行為であり、日本の施策とは大きな違いがある。日本語の役割は、①共通語を持つことと、②近代科学や技術、医学、哲学、文学、宗教などを学ぶ手段として不可欠であった。つまり、西欧近代文明を取り入れた日本語教育がなければ台湾の近代化は不可能であった。総督府は教育不毛の地を教育先進地域にしたのである。)
個人の幸福感は、安全、暴虐からの自由、身体的な安寧によるだけではなく、経済的な繁栄にもよる。そこで、日本は、新植民地の繁栄増進をもその目的としている。
鉄道網の構築
日本が台湾の割譲を受けた際に道路は存在しなかったが、変な話ながら、粗末な建造且つ貧弱な運営で殆ど役に立たない、短距離鉄道が存在した。鉄道運賃や貨物運送はほぼ毎日変更される他、都合の良い時だけの列車運航であった。
日本は、台湾が基本的に求めるものを理解し、島の多くの地域に組織的な道路建設を始めており、米国領事の最近のレポートによると既に1,000マイル以上の道路が建設されている。日本政府は同時に包括的な鉄道制度を精密に企画し、28,800,000円(ほぼ3,000,000ポンド)の予算を計上しているが、これは日本のような国にとっては殆ど信じがたいような金額である。

日本人が台湾でその存在を見た鉄道は既に完全に建造され直され又、新竹-高尾間の新線建設が両ターミナルから同時に全力投球で始まっている。1897年から1903年の間に95マイルの線路が敷設され、37の駅が建造され、210輌の貨車及び客車、機関車20輌が導入された。
この期間に、運送旅客数は4倍にそして輸送貨物量は10倍に伸びた。加えて、軽便鉄道が導入され、125マイルの線路が2~3ヶ月で敷設された。更に52マイルの軽便鉄道が間もなく建設される。

郵便、電信、電話も既に導入され大きな成功を収めている。1896年から1902年の間に一般大衆向け郵便局87局が島中に開設され、1902年には13,285,105通の封書・ハガキ及び114,779個の小包を取り扱い、336,207件の国内為替を発行した。電信の距離は1896年の900マイルから1902年には2,600マイルに伸び又、1,350マイルの電話線が敷設され1902年には3,690,228件の通話が行われた。

日本人が入る前から続いていた台湾の地元産業は、殆ど満足できない形で続行された。実り豊かな土地の耕作法は、科学的なものばかりか伝統的・絶対的なものでさえ、知られていなかった。原住民は主として人の手が加わっていない自然の恵みに依存した。台湾の農民は米の二期作や三期作さえも享受しながらも、収穫は労苦に見合ったものではなく、収入も全く不十分なものであった。
日本人が導入した改良手法を通じて、1896年から1902年の間の米の生産量は10%伸びている。同じ期間のお茶の生産量は5倍となり又、砂糖、甘藷、サトウキビ、ラミー麻、黄麻、ウコンなどその他主要農産物もかなり大きな伸びを見せている。

(註:この後、バルトンの教え子である八田与一による烏山頭ダム建設と嘉南大洲の沃野開発、磯永吉・永末仁の12年もの地道な努力から生まれた画期的な蓬莱米などの品種改良、新渡戸稲造博士による製糖業の大改革など、更なる発展がある。「飢餓の島」は一大食料輸出地に変貌した。)
広大な森林の利用も不十分であった。原住民はそれほど不経済であり、例えば楠から樟脳を取り出す際に得られた樟脳油を、地元の精製者は廃物として取り扱った。日本人が導入した改革の結果、樟脳の生産は1897年の1,534,596斤から1903年には3,588,814斤へと着実に増え、樟脳油の産出も1897年の638,603斤から1903年には2,670,561斤へと伸びた。
鉱業も同様に最も浅薄で且つ不明意なやり方で継続されたため、最大限の労力を費やしながら最小限の結果しか産まれなかった。
忍耐強い指導と穏やかな主張により、日本人はあらゆる産業において改良手法の導入に成功している。農業収穫はより良くなり、森林は科学的に開発され、数百万本の楠の若木が適地に植林され、そして鉱業は直近の2~3年間で大きな進歩を遂げている。
銀行・通貨制度
台湾の貿易や産業の改善の結果、銀行機関や通貨制度の改善が必要であることが自ずと明らかになった。その結果、この島の中央銀行機関として台湾銀行が創立され又、より重要な中心部に民間銀行の事務所が開設された。

郵便貯蓄銀行も開設され、かなり満足のゆく成功を収めている。預金者数は1896年の5,847人から1902年には41,145人に、預金額は1806年の228,487円から1902年には763,575円に増大した。
台湾通貨も改革を必要とした。台湾は、ずっとシナと全く同じく為替の媒体が硬貨ではなく金塊の国であった。扱いにくい大きな銅貨のせいで、どんな規模の商業取引であれ殆ど不可能であった。今では、日本の最新の貨幣制度がこの大昔の貨幣制度に取って代わっている。
日本はお金を湯水のように台湾に注ぎ込んだ。粗糖、白糖、硝子、紙などの生産工場を創設し、最も優秀な人材を管理者として送り込んでいる。疑いもなく日本は、その開けた政策に対する報酬を然るべき時期に受け取るであろう。
この島が完全に鎮圧されてから僅か2~3年が経過したばかりながら、既に達成された、おきまりの経済発展は、大変に著しい。住民の繁栄の増大は、基本的に政府の仕事や事業、阿片専売、関税や種々の税金に由来する総合歳入が1896年の2,711,822円から1903年の12,738,587円へとほぼ10倍に拡大していることから、見て取れよう。

主として土地・家屋や事業などへの課税で構成される地方の通常歳入は、1898年の747,850円から1902年には1,952,220円へと伸び、4年でほぼ3倍となった。一般課税及び地方課税の徴収において、これらの輝かしい成果を達成するための不当な圧政が行われたことは、これまでにない。
従って、台湾の人口がその資源開発と共に急増していることは、正に当然である。1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加している。
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