読売新聞は中国を怖がらない―台湾報道で見る画期的姿勢
多くの読者は何とも感じなかったと思うが実はこれ、日本のマスコミが使用する台湾地図としては、とても画期的なものだったのだ。下がそれだ。「CHINA」と言う国名が見えるが、「TAIWAN」がそれと同じ大きさで対等に並んでいる。

マスコミはこのような場合、たいていは「台湾」を「中国」と言う「国名」より小さく書き入れたり、あるいは字体を変えたりして、「国名」ではなく「地域名」だと強調するものだが、同じ「地域」でも「北朝鮮」の場合はそうしない。
ではなぜ「台湾」だけ、そこまで細かな配慮を加えるかと言うと、それは「台湾を主権国家などとは認めていません」「台湾は中国の一部だと考えています」「台湾独立には加担しません」と言った会社の姿勢を中国に見せなくてはならないからだ。たとえそこまで考えていないとしても、そうすることがすっかり習い性になっているように思う。
ところが今回のこの地図を見る限り、「TAIWAN」は明らかに「CHINA」には隷属しない独立した存在としてはっきりと描かれている。今や歴史問題以上に敏感になっている台湾問題で、読売は中国に一々気兼ねなどをしていないらしい。これは“大きな”ことなのだ。
日本経済新聞などは報道記事で、「台湾」に対して中国を「中国本土」と呼んでいる。そこで先日「御社は台湾を中国の属領と考えているのか」と尋ねたら、「それには答えられないことになっている」との説明を受け、唖然とした。一方何年か前、読売も「中国本土と台湾」と書いたことがあった。実際にはその前の方に「香港」の二文字があり、それに対しての「本土」との意味だったのだが、それを書いた記者は「誤解されるような書き方をしたのならお詫びする。しかし私も、そして読売新聞も、台湾を中国の一部などとは一切考えていない」と強調したことを思い出す。
報道機関のクセに「台湾は中国の一部ではない」との真実を語れない、さらにはそれを敢えて歪めて伝える日経のようなマスコミが横行するこの国において、こうした読売の姿勢は当たり前とは言え、とても立派に感じてしまうのだ。
さて記事本文の方だが、これも多くの日本人に紹介したい内容である。
ここで出てくる職人さんの店は、台北の中山北路と言う大通り沿いにあり、台北観光中、あの純日本的な佇まいを目にして驚いた人は少なくない。私も台湾に通い出した二十数年前、たまたま店を見かけ、思わすこの職人さんに声を掛けたことがある。いろいろと話を聞かせてもらったが、まったく記事に描かれたような人だった。
このとき私は、日本と台湾の心の近さを感じ、「この人の作った物を持ち帰りたい」との衝動に駆られ、竹製の大きな蒸籠などを買い、それを大切に担いで帰国したのを憶えている。
そのような次第で、以下に転載したい(写真も)。これを読めば、「台湾は中国の一部ではない」ことが、「日本人の感覚」でわかるはずだ。
日本人仕込み 職人歴67年…台湾・台北
木桶づくりの技 しごきに耐えて盗んだ
台北の店舗兼工房で、木おけを製作する林相林さん
日本の植民地時代から70年近く、今も台北で木桶(おけ)を作り続ける台湾人がいると聞いた。日本では珍しくなった木桶職人。台湾に根付いた日本の職人魂に触れたくなり、うわさを確かめに歩いた。(台北 源一秀、写真も)
50歳の息子も「まだヒヨコさ。ガハハ」
工房を兼ねたその店は、台北駅の近くにあった。
風呂桶、洗面器、たらい、腰掛け、おひつ、おたま――。10畳ほどの店内に商品が高く積まれ、路上にもはみ出している。店の名は林田桶店。さびついて文字が判読しづらいブリキの看板が、繁華街の中で一際目立っていた。
創業当時から使っている「林田桶店」のブリキ看板
「この看板は、私が生まれる1年前に初代店主の父が店を開いてから、ずっとかけっぱなしだ。さびついたんじゃなくて、箔(はく)がついたってこと。ガハハハ……」
日本時代に生まれ育った林相林さん(79)は、流暢(りゅうちょう)な日本語を話し、そしてよく笑う。
店のある一帯は、戦中まで総督府の職員などが住む日本人居住区だった。「林田」の屋号は日本人に親しみを持ってもらうため、父がそう名付けたという。
林さんは台北の小学校を卒業後、約30キロ離れた基隆市で木桶の製造・販売店を営んでいた神戸出身の職人、鳥井千代松さん(故人)のもとへ住み込みの修業に出された。12歳の時だった。
「桶職人の親を持つからには、それが当然だと思っていたけど、あんな目に遭うなんてね」
明治生まれの鳥井さんは、「誰よりも良いモノを作ったけど、おっかない人」だった。ヘマをしでかすと「このバカ野郎!」と雷が落ちる。
毎朝5時に起き、鳥井さんが起床する7時ごろまでにカンナの刃を研ぎ、道具を整えなければならない。
仕事は深夜の12時ごろまで。「食事、トイレ、風呂以外は休む暇がなかった。今なら労働基準法違反だ。ガハハハ……」
木材の切り出しからカンナがけ、組み立て、木の調整――。単純作業に見えても、確実に仕上げるには年季が必要だ。鳥井さんに時々コツを尋ねたが、「すぐに『バカ野郎! 何度言ったら分かるんだ!』って。初めて聞いてもそう言うんだよ、ガアッハハハ……。だから師匠の手元を見て技術を盗んだんだ」
鳥井さんの元を離れたのは、住み込みを始めて3年後。基隆が米軍の空爆を受けた1944年末だった。
「米軍機が爆弾落とし始めてね。みんなでトンネルに避難したら、師匠が追っかけてきて『お前、店ほったらかしてどこ行くんだ!』って。日本の職人ってすごいって思ったよ。でも、私は台北に逃げ帰った。ガハハハ……」
鳥井さんは戦後、帰国して亡くなった。「今も頭が上がらないよ。あのしごきがあったからこそ、激しい競争に勝ち残れたんだ」
終戦から3年。林さんは18歳で父から店を引き継いだ。台湾でも木桶は生活必需品だったが、60年代に安いプラスチック容器が登場すると、台北に約30軒あった同業は相次いで廃業に追い込まれていった。林田桶店はいつの間にか、台湾で唯一と言われる製造・販売店になった。
「木桶の価値はまだある、意地でもやめるかって頑張ったよ」
最近は美容や健康に敏感な女性を中心に、木桶を求める人が増えている。「手入れをすれば、どれも10年以上使える。お湯は冷めにくいし、木の香りもして、風呂桶なんて最高だよ」
この人にかかっては、30年以上も一緒に店を支えてきた3代目、息子の煌一さん(50)も出る幕はない。
「こいつはヒヨコさ。まだ店は譲れないな。ガハハハハ……」
(2009年3月13日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/earth/ear090313.htm
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