祝っている場合ではない双十国慶節
2007/04/18/Wed
祝っている場合ではない双十国慶節 (平成15年10月10日)
台湾研究フォーラム事務局長 永山英樹
本10月10日は中華民国の建国記念の日のようなものに当たる双十国慶節だ。これは言うまでもなく1911年10月10日、中国湖北省の武昌の革命分子が、追い詰められて暴発、蜂起したところ、あにはからんや官軍が逃走しため、勃発と相成った辛亥革命を記念するものであり、同時にそれを指導したとされる孫文を仰ぐ日でもある。
だが革命分子とは言っても、孫文に嫌気がさして中国革命同盟会から離脱したグループであり、しかも革命側戦力の中心は新軍という官軍であり、清国皇帝を退位させて中華民国を正式に樹立し、革命を達成したのは袁世凱初代大総統なのである。孫文は2ヶ月ほど名目上の臨時大総統に担ぎ出されただけであって、この革命においては指導どころか、ほとんど何も仕事をしていない。
ところが後年、蒋介石が自らの権力を正統化するため(袁世凱の中華民国と蒋介石の中華民国には実質的な連続性はない)、先輩の孫文を辛亥革命を指揮した国父と神格化した。またこの国慶節を定め、自分こそが真の革命の継承者だと主張したのである。もっとも、中国人が何をどう祝おうと、それは中国人の自由である。中国人でなければ書き上げることのできない、壮大でロマンチックな歴史物語(フィクション)として拍手を贈って良い。
しかし問題は台湾である。戦後になって国慶節が、中国人によって台湾に持ち込まれた。そして近代的で高い教育水準を持つ台湾人を、中国式人治社会に馴染ませるための再教育(独裁政治に従わせるための愚民教育)の道具として、これを大いに利用したのだ。
つまり年に一度のこの日に、台湾全土で愚民教育の大教室を開いたのである。かくして台湾人は中国人と化し、偉人でも何でもなかった孫文を世界最高の偉人として仰ぎ、絶対に実現不可能な「三民主義統一中国」を可能と信じるようになり、おかげで中華民国の権力者は異郷の地で、安心して住民管理を行うことができるようになった。
台湾人は民主化後、蒋介石の権威は否定するようになったものの、孫文の権威については依然承認しているようだ。なぜなら地上の独裁者蒋介石は台湾人を殴ったが、天上の神である孫文は何も手を下していないからだが、こうした曖昧な台湾人の意識形態が、中華民国体制を支え、中国と連携する統一派という売国勢力の跋扈を許しているのである。
台湾では今日、全国各地で国慶節の祝賀行事を行っている。李登輝前総統は先月、「中華民国は存在しない」として台湾正名運動を発動した。この運動の一部始終を熱心に実況中継したテレビの某ニュースチャンネルでさえ、今日は各地の祝賀行事をお祭り気分で放映中だ。こうした矛盾を矛盾と気づかないのは、長年の愚民教育の影響で、台湾人の国家意識なり価値判断力が、やはりどこかで麻痺しているからだろう。これは立派な愚民、奴隷に成り下がってしまったことの証ではないか。いくら台湾人が本土化を叫んでも、この日のお祝いをやめない限り、今後も若い愚民を続々と輩出し続けることだろう。
これはまさしく悲劇以外の何ものでもない。「国慶」を「滑稽」と笑う向きもあるが、最早台湾人に対する「酷刑」と言うべきである。
また今日は、日本でも祝賀行事が行われ、大勢の親台派日本人も参加するようだ。もちろんそれは台湾への友情表明だから、それはそれで結構だが、李登輝前総統を尊敬し、台湾正名(中華民国から台湾国へ)に賛同する人なら、台湾人にとっての中華民国体制というものを、今一度深刻に考えてみるべきではないか。
台湾は、今「中国」をやめなければ、やがて中国のブラックホールに呑み込まれる危険性が高いのである。国際社会もそれを中国の内政問題として、どこまで救いの手を差し伸べるかはわからない。
最早「中国の誕生日」などを祝って喜んでいる場合ではないのである。
台湾研究フォーラム事務局長 永山英樹
本10月10日は中華民国の建国記念の日のようなものに当たる双十国慶節だ。これは言うまでもなく1911年10月10日、中国湖北省の武昌の革命分子が、追い詰められて暴発、蜂起したところ、あにはからんや官軍が逃走しため、勃発と相成った辛亥革命を記念するものであり、同時にそれを指導したとされる孫文を仰ぐ日でもある。
だが革命分子とは言っても、孫文に嫌気がさして中国革命同盟会から離脱したグループであり、しかも革命側戦力の中心は新軍という官軍であり、清国皇帝を退位させて中華民国を正式に樹立し、革命を達成したのは袁世凱初代大総統なのである。孫文は2ヶ月ほど名目上の臨時大総統に担ぎ出されただけであって、この革命においては指導どころか、ほとんど何も仕事をしていない。
ところが後年、蒋介石が自らの権力を正統化するため(袁世凱の中華民国と蒋介石の中華民国には実質的な連続性はない)、先輩の孫文を辛亥革命を指揮した国父と神格化した。またこの国慶節を定め、自分こそが真の革命の継承者だと主張したのである。もっとも、中国人が何をどう祝おうと、それは中国人の自由である。中国人でなければ書き上げることのできない、壮大でロマンチックな歴史物語(フィクション)として拍手を贈って良い。
しかし問題は台湾である。戦後になって国慶節が、中国人によって台湾に持ち込まれた。そして近代的で高い教育水準を持つ台湾人を、中国式人治社会に馴染ませるための再教育(独裁政治に従わせるための愚民教育)の道具として、これを大いに利用したのだ。
つまり年に一度のこの日に、台湾全土で愚民教育の大教室を開いたのである。かくして台湾人は中国人と化し、偉人でも何でもなかった孫文を世界最高の偉人として仰ぎ、絶対に実現不可能な「三民主義統一中国」を可能と信じるようになり、おかげで中華民国の権力者は異郷の地で、安心して住民管理を行うことができるようになった。
台湾人は民主化後、蒋介石の権威は否定するようになったものの、孫文の権威については依然承認しているようだ。なぜなら地上の独裁者蒋介石は台湾人を殴ったが、天上の神である孫文は何も手を下していないからだが、こうした曖昧な台湾人の意識形態が、中華民国体制を支え、中国と連携する統一派という売国勢力の跋扈を許しているのである。
台湾では今日、全国各地で国慶節の祝賀行事を行っている。李登輝前総統は先月、「中華民国は存在しない」として台湾正名運動を発動した。この運動の一部始終を熱心に実況中継したテレビの某ニュースチャンネルでさえ、今日は各地の祝賀行事をお祭り気分で放映中だ。こうした矛盾を矛盾と気づかないのは、長年の愚民教育の影響で、台湾人の国家意識なり価値判断力が、やはりどこかで麻痺しているからだろう。これは立派な愚民、奴隷に成り下がってしまったことの証ではないか。いくら台湾人が本土化を叫んでも、この日のお祝いをやめない限り、今後も若い愚民を続々と輩出し続けることだろう。
これはまさしく悲劇以外の何ものでもない。「国慶」を「滑稽」と笑う向きもあるが、最早台湾人に対する「酷刑」と言うべきである。
また今日は、日本でも祝賀行事が行われ、大勢の親台派日本人も参加するようだ。もちろんそれは台湾への友情表明だから、それはそれで結構だが、李登輝前総統を尊敬し、台湾正名(中華民国から台湾国へ)に賛同する人なら、台湾人にとっての中華民国体制というものを、今一度深刻に考えてみるべきではないか。
台湾は、今「中国」をやめなければ、やがて中国のブラックホールに呑み込まれる危険性が高いのである。国際社会もそれを中国の内政問題として、どこまで救いの手を差し伸べるかはわからない。
最早「中国の誕生日」などを祝って喜んでいる場合ではないのである。
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