若者の間でも日本時代は「懐かしい」
2008/09/07/Sun
戦後台湾の国民党独裁時代に進められた中国化政策の下、台湾の文化的色彩を除去するため、台湾の歴史はタブーとなった。もちろん日本時代の歴史に関してはとくにそうだった。日本の文化的影響の払拭は喫緊の政策課題とされていたのだ。
ところが民主化以降、「台湾人の台湾」建設が進み、当然のことながら台湾史に脚光が当てられた。そして日本時代もまた、台湾の近代化の時代として大きな注目を浴びた。そして今では若い人々の間でも、日本時代は「懐かしい」。教育で教えられてこなかった時代だけに「興味深い」。
だから当時に関する話題も豊富だ。この一ヶ月間だけでも、次のような報道が見られた。
まずは嘉義で有名な菓子店の紹介記事。嘉義は阿里山の林業で栄えた町で「日本とは濃厚な関係。日本人の文化が生活面に大きく関連している」が、一九五三年創業のこの店も日本式の羊羹や饅頭が人気。ご主人の父親が日本人に学んだ技術を受け継いでいるのだと言う(大台湾旅遊網、九月四日)。日本風の菓子は今でも各地で特産品になっているが、しばしば宣伝では日本時代以来の「伝統の味」が強調されている。
台南大学元教官の林二郎氏が小説「笛鶴」で今年度の作家の最高栄誉とされる金鼎賞の「最佳著作人賞」を受賞した。これは日本時代の一九一八年、原住民の研究調査をまとめて刊行された「理蕃誌稿」を参考にして書かれたもの。(中央社、九月四日)。かつての日本人の原住民研究は今でも重要視されている。
台南市四草で自然生態の解説員を務める陳氏が自宅を整理していたところ、六十八年前の防風林植樹記念の湯飲みが出てきたと言う話題。皇紀二千六百年の記念活動の一環として行われた植樹だと言う。「九谷」とも書かれてが、陳氏は「それは日本で有名な焼き物の産地。陳氏は九谷で焼かれたものではないかと考え、それもまた格別に貴重だ」と言っている。陳氏が調べたところ、大正十一年、台湾総督府は海岸線での防風林植樹計画を推進し、村民に無料で苗を配布していたことがわかったそうだ。しかし四草の防風林は伐採されてあまり残っていない(自由時報、八月二十九日)。戦後台湾に入ってきた国民党の中国人が意味なく防風林を乱伐した話は、知る人ぞ知る。

歴史の証人となった九谷焼
台北市で有名な北投温泉は日本時代に開発された温泉街で、当時は「台湾十二勝」にも選ばれていた。現地の博物館(一九三〇年に建てられた北投公共浴場)では展示会が始まり、日本時代の温泉関連の文物が並べられている。注目は今ではほとんど見られない「北投焼」(現地で焼かれた陶器)も(中央社、八月二十八日)。
かつて南部の平原で縦横に伸びていた日本時代以来の精糖会社の軽便鉄道は今では廃止されているが、一部は観光用に復活している。しかし多くは破壊され、「日本時代の珍貴な遺産がなくなってしまう恐れがある」と残念がる記事もあった(中国時報、八月三十一日)。
史跡の保存の動きもある。一九八六年に廃止された高雄県の旗山駅舎は大正元年に建てられた洋風木造建築だが、現在修復工事中。倒壊の危機にあったが、地元の人々による保存の訴えが県長や県議員の支持を受けた(中央社、八月十四日)。
政府が主催した「台湾世紀百景」で百ヶ所の有名な古い建築が選ばれた。台北県菁桐の街でも、日本時代の菁桐駅舎、炭鉱会社の建築などが選出された。木造の駅舎は観光客にも人気だ(中華テレビ、八月二十四日)。レトロな木造の駅舎はどこでも人気だ。
新竹県竹東にある軽便鉄道の待合室の遺跡は、大正十年に建てられたバロック風建築。政府も史跡として高い評価を下している(自由時報、八月二十二日)。

竹東に残る軽便鉄道の旧待合室。台湾人は朽ち行く古建築をいとおしむ
日本時代に建てられた新化公会堂(台南県新化)は、終戦後は中山堂と呼ばれたが、今では台南県の歴史建築に指定されているが、日本建築の風貌があり、来年には観光サービスセンターに生まれ変わる計画だ(自由時報、八月二十六日)。このように日本時代建築を修復し、日本時代の呼称を復活させ、観光用に再利用して保存する話はいくらでもある。

新化公会堂の名称も復活。歴史を大切にする意欲が伝わる
高雄市で史跡に指定された武徳殿は日本時代、京都の武徳殿より二十年も早く立てられたもので、その経営は剣道の教士の陳氏に委託されているが、陳氏は「駐車場もなく、これではなかなか発展できない」と嘆いている(自由時報、八月十六日)。この建物は最近修復され、日本時代と同様、剣道の試合などで使用されている。

純日本的な高雄の武徳殿。完全修復で話題となった
かつて日本時代の歴史は「迫害、抵抗」の悲惨な歴史とだけ語られてきたが、今ではこのように大きく変わりつつある。つまり政治的な「日本の侵略」史観からの脱却が行われているのだ。これだけを見ても台湾人が、反日を原動力とする中華民族主義から脱却していることがわかるはずだ。
日本人以上に、当時の歴史を公平に眺めているとも言える台湾人。史実尊重の歴史観は、中国人に言わせれば「親日」的な歴史観となるのだが、これだけを見ても台湾人が中国人ではないことがわかる。
そう言えば報道では、日本時代の呼称としてかつての「日拠時代」に代わり「日治時代」が増えつつある。「日拠」は「日本の占拠」、つまり「日本に占領された台湾」(中国領の台湾が不法占領されたの意味)と言うものだが、史実どおりに「日治」、つまり「日本に統治された時代」に改められつつあるのだ。それから「光復」(祖国中国に返った)も、一切政治色抜きの「終戦」に書き換えるケースも多くなった。
日本的なものを台湾的なものとして懐かしむ台湾人の感性は、日本人と台湾人との文化や価値観の上での共通性を示唆している。
たとえ戦後世代同士でも、日本人さえ努力すれば、台湾人との信頼関係はもっと強化できるのではないだろうか。
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ところが民主化以降、「台湾人の台湾」建設が進み、当然のことながら台湾史に脚光が当てられた。そして日本時代もまた、台湾の近代化の時代として大きな注目を浴びた。そして今では若い人々の間でも、日本時代は「懐かしい」。教育で教えられてこなかった時代だけに「興味深い」。
だから当時に関する話題も豊富だ。この一ヶ月間だけでも、次のような報道が見られた。
まずは嘉義で有名な菓子店の紹介記事。嘉義は阿里山の林業で栄えた町で「日本とは濃厚な関係。日本人の文化が生活面に大きく関連している」が、一九五三年創業のこの店も日本式の羊羹や饅頭が人気。ご主人の父親が日本人に学んだ技術を受け継いでいるのだと言う(大台湾旅遊網、九月四日)。日本風の菓子は今でも各地で特産品になっているが、しばしば宣伝では日本時代以来の「伝統の味」が強調されている。
台南大学元教官の林二郎氏が小説「笛鶴」で今年度の作家の最高栄誉とされる金鼎賞の「最佳著作人賞」を受賞した。これは日本時代の一九一八年、原住民の研究調査をまとめて刊行された「理蕃誌稿」を参考にして書かれたもの。(中央社、九月四日)。かつての日本人の原住民研究は今でも重要視されている。
台南市四草で自然生態の解説員を務める陳氏が自宅を整理していたところ、六十八年前の防風林植樹記念の湯飲みが出てきたと言う話題。皇紀二千六百年の記念活動の一環として行われた植樹だと言う。「九谷」とも書かれてが、陳氏は「それは日本で有名な焼き物の産地。陳氏は九谷で焼かれたものではないかと考え、それもまた格別に貴重だ」と言っている。陳氏が調べたところ、大正十一年、台湾総督府は海岸線での防風林植樹計画を推進し、村民に無料で苗を配布していたことがわかったそうだ。しかし四草の防風林は伐採されてあまり残っていない(自由時報、八月二十九日)。戦後台湾に入ってきた国民党の中国人が意味なく防風林を乱伐した話は、知る人ぞ知る。

歴史の証人となった九谷焼
台北市で有名な北投温泉は日本時代に開発された温泉街で、当時は「台湾十二勝」にも選ばれていた。現地の博物館(一九三〇年に建てられた北投公共浴場)では展示会が始まり、日本時代の温泉関連の文物が並べられている。注目は今ではほとんど見られない「北投焼」(現地で焼かれた陶器)も(中央社、八月二十八日)。
かつて南部の平原で縦横に伸びていた日本時代以来の精糖会社の軽便鉄道は今では廃止されているが、一部は観光用に復活している。しかし多くは破壊され、「日本時代の珍貴な遺産がなくなってしまう恐れがある」と残念がる記事もあった(中国時報、八月三十一日)。
史跡の保存の動きもある。一九八六年に廃止された高雄県の旗山駅舎は大正元年に建てられた洋風木造建築だが、現在修復工事中。倒壊の危機にあったが、地元の人々による保存の訴えが県長や県議員の支持を受けた(中央社、八月十四日)。
政府が主催した「台湾世紀百景」で百ヶ所の有名な古い建築が選ばれた。台北県菁桐の街でも、日本時代の菁桐駅舎、炭鉱会社の建築などが選出された。木造の駅舎は観光客にも人気だ(中華テレビ、八月二十四日)。レトロな木造の駅舎はどこでも人気だ。
新竹県竹東にある軽便鉄道の待合室の遺跡は、大正十年に建てられたバロック風建築。政府も史跡として高い評価を下している(自由時報、八月二十二日)。

竹東に残る軽便鉄道の旧待合室。台湾人は朽ち行く古建築をいとおしむ
日本時代に建てられた新化公会堂(台南県新化)は、終戦後は中山堂と呼ばれたが、今では台南県の歴史建築に指定されているが、日本建築の風貌があり、来年には観光サービスセンターに生まれ変わる計画だ(自由時報、八月二十六日)。このように日本時代建築を修復し、日本時代の呼称を復活させ、観光用に再利用して保存する話はいくらでもある。

新化公会堂の名称も復活。歴史を大切にする意欲が伝わる
高雄市で史跡に指定された武徳殿は日本時代、京都の武徳殿より二十年も早く立てられたもので、その経営は剣道の教士の陳氏に委託されているが、陳氏は「駐車場もなく、これではなかなか発展できない」と嘆いている(自由時報、八月十六日)。この建物は最近修復され、日本時代と同様、剣道の試合などで使用されている。

純日本的な高雄の武徳殿。完全修復で話題となった
かつて日本時代の歴史は「迫害、抵抗」の悲惨な歴史とだけ語られてきたが、今ではこのように大きく変わりつつある。つまり政治的な「日本の侵略」史観からの脱却が行われているのだ。これだけを見ても台湾人が、反日を原動力とする中華民族主義から脱却していることがわかるはずだ。
日本人以上に、当時の歴史を公平に眺めているとも言える台湾人。史実尊重の歴史観は、中国人に言わせれば「親日」的な歴史観となるのだが、これだけを見ても台湾人が中国人ではないことがわかる。
そう言えば報道では、日本時代の呼称としてかつての「日拠時代」に代わり「日治時代」が増えつつある。「日拠」は「日本の占拠」、つまり「日本に占領された台湾」(中国領の台湾が不法占領されたの意味)と言うものだが、史実どおりに「日治」、つまり「日本に統治された時代」に改められつつあるのだ。それから「光復」(祖国中国に返った)も、一切政治色抜きの「終戦」に書き換えるケースも多くなった。
日本的なものを台湾的なものとして懐かしむ台湾人の感性は、日本人と台湾人との文化や価値観の上での共通性を示唆している。
たとえ戦後世代同士でも、日本人さえ努力すれば、台湾人との信頼関係はもっと強化できるのではないだろうか。
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