中尊寺の李登輝氏への非礼―炙り出された媚中根性
2007/06/06/Wed
李登輝氏は日本滞在五日目の六月四日、岩手県に入り、水沢市の後藤新平記念館を参観した。そして後藤新平生誕百五十年に当たるこの日、隣の公民館で開かれていた記念式典に登壇、市民らの前で挨拶を行った。私もその会場にいたが、この外国の元国家元首が口を開くや、突然の力強い日本語のスピーチに聴衆は度肝を抜かれた様子。李氏は「日本はアジアのリーダーになるべきだ」と激励した。また「日本人は中国を知らない。あの国に妥協してはだめなのだ」と発破もかけた。会場には大勢の小学生もおり、日本の未来を担う彼らの前で、李氏は日本の再起を強く訴えたのである。
それで聴衆は大感動した。十分ほど話をして会場を後にする李氏に対し、大拍手が起こって鳴り止まず、あちこちで「万歳」の声も上がった。
ところがここまで日本を心配し、応援してくれる李氏に対し、実はこの日、日本人に大きな非礼行為があったのだ。水沢入りの前に立ち寄った平泉の中尊寺の李氏への対応がそれである。
李氏来日当日の五月三十日、中国仏教協会の学誠副会長を団長とする訪日団(国家宗教局の葉小文局長ら政府関係者も含む)が、日中友好宗教者懇話会の招きで中尊寺を訪れた。懇話会は戦時中、日本で死んだ中国人俘虜の遺骨返還活動を前身とした超宗派団体で、その事務局長を務めるのが中尊寺の山田俊和貫首である。そしてこれは日本李登輝友の会岩手県支部から直接聞いたことだが、当初、李登輝氏を来賓として向かえる予定だった同寺は、この訪問団から「李登輝を特別扱いにすると、中尊寺との交流は停止する」と言われたため、李氏の来賓待遇は取り止めると通知してきたそうだ。
かくして「一般参拝者」に格下げされた李氏が中尊寺に到着すると、同寺は「法要がある」を理由に出迎えもせず、案内役も出さず、拝観料を徴収した。私は現地で見ていたが、李氏の乗る自動車は寺の裏の一般駐車場にしか行けなかった。そのため李氏は徒歩で急な階段を上るわけだが、李氏の体調ではそれができない。そこで遠回りして他の道を歩かざるを得なかった。もっともその途中、万歳三唱で迎えるおじいさんやおばあさんの観光客一人ひとりに笑顔で握手するなど、李氏の姿は堂々としていた。なぜ寺は出迎え一つできないのか。同行した台湾の記者に「李登輝氏が来ているのを知っているか」と聞かれた寺の職員は、「いやいや」と手を横に振って逃げた。
李氏が前々日に立ち寄った松島の瑞厳寺では貫首以下が案内に立ち、寺を挙げて懇切に持て成していた。前日の山寺の立石寺でも、山形県知事までが出迎えている。また一般民衆も、訪れる先々で立ち並び、李氏を大歓迎している。これらは日本人としての常識的な対応と言える。それと中尊寺を比較すれば、如何にこの寺が非常識であるかがわかるはずだ。日本人としても、宗教者としてもだ。
これまで李氏の日本での「政治的発言」を阻止してきたのが媚中派なら、あくまでも「政治的な動き」に出るのも媚中派である。たとえ宗教者であっても、信仰よりも政治を優先する中尊寺を見ると、これなどは完全に中国の宗教統制体制に組み込まれているとしか言いようがない。つまり政治への仏教徒の精神的な屈服である。
しかし考えてみよう。ここは中国ではなく、日本なのだ。
だいたい中国から圧力を受ける日本人は、日頃から中国に媚びている連中。圧力が効くと思われているから圧力をかけられる。仏教協会の訪日団は立石寺にも言っているが、そこでは圧力をかけなかったのだろうか。それとも圧力を跳ね返したのだろうか。
李氏の言うように日本がアジアの本当のリーダーになるには、まずはここまで中国の圧力に屈服する日本人の存在を許さないことだ。
李氏の来日で注目しなければならない重大な一つは、媚中派日本人の生態である。彼らは来日があるたびに、必ずと言っていいほどその醜い姿を世間に曝すから注視しよう。そして問題にしよう。
心ある日本人に勇気をもたらすと同時に、隠れた害虫を炙り出す。それが「李登輝効果」と言うものである。李氏の訪日を単なる親日家の観光旅行などと思っているだけではだめなのだ。
よろしければ
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それで聴衆は大感動した。十分ほど話をして会場を後にする李氏に対し、大拍手が起こって鳴り止まず、あちこちで「万歳」の声も上がった。
ところがここまで日本を心配し、応援してくれる李氏に対し、実はこの日、日本人に大きな非礼行為があったのだ。水沢入りの前に立ち寄った平泉の中尊寺の李氏への対応がそれである。
李氏来日当日の五月三十日、中国仏教協会の学誠副会長を団長とする訪日団(国家宗教局の葉小文局長ら政府関係者も含む)が、日中友好宗教者懇話会の招きで中尊寺を訪れた。懇話会は戦時中、日本で死んだ中国人俘虜の遺骨返還活動を前身とした超宗派団体で、その事務局長を務めるのが中尊寺の山田俊和貫首である。そしてこれは日本李登輝友の会岩手県支部から直接聞いたことだが、当初、李登輝氏を来賓として向かえる予定だった同寺は、この訪問団から「李登輝を特別扱いにすると、中尊寺との交流は停止する」と言われたため、李氏の来賓待遇は取り止めると通知してきたそうだ。
かくして「一般参拝者」に格下げされた李氏が中尊寺に到着すると、同寺は「法要がある」を理由に出迎えもせず、案内役も出さず、拝観料を徴収した。私は現地で見ていたが、李氏の乗る自動車は寺の裏の一般駐車場にしか行けなかった。そのため李氏は徒歩で急な階段を上るわけだが、李氏の体調ではそれができない。そこで遠回りして他の道を歩かざるを得なかった。もっともその途中、万歳三唱で迎えるおじいさんやおばあさんの観光客一人ひとりに笑顔で握手するなど、李氏の姿は堂々としていた。なぜ寺は出迎え一つできないのか。同行した台湾の記者に「李登輝氏が来ているのを知っているか」と聞かれた寺の職員は、「いやいや」と手を横に振って逃げた。
李氏が前々日に立ち寄った松島の瑞厳寺では貫首以下が案内に立ち、寺を挙げて懇切に持て成していた。前日の山寺の立石寺でも、山形県知事までが出迎えている。また一般民衆も、訪れる先々で立ち並び、李氏を大歓迎している。これらは日本人としての常識的な対応と言える。それと中尊寺を比較すれば、如何にこの寺が非常識であるかがわかるはずだ。日本人としても、宗教者としてもだ。
これまで李氏の日本での「政治的発言」を阻止してきたのが媚中派なら、あくまでも「政治的な動き」に出るのも媚中派である。たとえ宗教者であっても、信仰よりも政治を優先する中尊寺を見ると、これなどは完全に中国の宗教統制体制に組み込まれているとしか言いようがない。つまり政治への仏教徒の精神的な屈服である。
しかし考えてみよう。ここは中国ではなく、日本なのだ。
だいたい中国から圧力を受ける日本人は、日頃から中国に媚びている連中。圧力が効くと思われているから圧力をかけられる。仏教協会の訪日団は立石寺にも言っているが、そこでは圧力をかけなかったのだろうか。それとも圧力を跳ね返したのだろうか。
李氏の言うように日本がアジアの本当のリーダーになるには、まずはここまで中国の圧力に屈服する日本人の存在を許さないことだ。
李氏の来日で注目しなければならない重大な一つは、媚中派日本人の生態である。彼らは来日があるたびに、必ずと言っていいほどその醜い姿を世間に曝すから注視しよう。そして問題にしよう。
心ある日本人に勇気をもたらすと同時に、隠れた害虫を炙り出す。それが「李登輝効果」と言うものである。李氏の訪日を単なる親日家の観光旅行などと思っているだけではだめなのだ。
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