昔台湾人は日本人だったー元同胞たちの戦後史を想う
2016/06/24/Fri
終戦後、一夜にして中国人支配下に置かれた台湾。それまで誇り高き日本国民だった人々は、あの異文明統治の下、いかなる思いで生きたのか。そのような元同胞(同胞に元も現もないかもしれないが)たちの戦後史に、我々は無関心でいるのはいけないことだ。そしてその子孫たちの生きる現在、未来の台湾に幸あれと祈らずにはいられない。
本稿は二〇〇六年頃、そのような想いで書いたものである。友人が保存していたので、下に公開したい。
台湾の頑固親父との数分間の出会い

新竹県北埔はいまでこそ客家文化で知られる観光地だが、かつて日本人など訪れない寂れた
田舎町だった頃、私はある老人と出会った
日本統治時代に教育を受けた台湾の老世代の日本贔屓は有名で、日本人と出会えばしばしば嬉しそうに日本語で話しかけてくる。こうした「親日」ぶりに日本の多くの人が感動する一方で、「植民地支配を受けたのに、なぜ」と戸惑う人もいる。この「なぜ」について色々と話を聞いて見たが、その理由にはどうも、この世代の何ともいとおしい「戦後事情」もあるらしい。
終戦後、中国の蒋介石政権の時代となると、言語から価値観に至るまで、それまでの日本的なものは徹底的に否定され、例えば人々の日本語での知識、教養は役立たなくなり、家庭でも戦後世代との間で様々な溝が生じた。だからまるで外国社会にでも投げ出されたかのような彼らは日本人を見るたびに、「同胞」が来たと懐かしむのだと言う。
そのような一人に私も六年前に会っている。台北から長距離バスなどを乗り継いで三時間ほどの田舎に北埔なる寂れた小さな街があり、そこへ史跡巡りに出かけた時のことだ。
街を一巡し終えた私は台北へ戻るべくバス停に行くと、まだ発車まで五分ほどある。そこで飲み水を買いに近くの古びた雑貨屋に入った。中国語で人を呼ぶと、薄暗い店の奥からおじさんが出てきた。
そこで私はすぐに日本語に切り替えた。その人は顔の表情と言うか、身のこなしと言うか、まさに「日本の頑固親父」の雰囲気があり、その世代だとわかったからだ。
こうして日本語での会話が始まった。私が「あの丘の上は日本時代の神社跡ですね」と聞くと、おじさんは当時の街の様子を詳しく説明し始めた。
だが間もなく発車時刻である。そこで私は咄嗟に名刺を差し出した。何もせず別れるのは何とも惜しかったからだ。何しろ異国のこんな田舎で「同胞」と出会えたのである。
それはおじさんも同じだったようで、「名刺を出すからには、また来ると言うことだな」とつぶやいた。そこで「必ず参ります」と約束し、そこを離れた。許さんと言う人だった。
しかし次に来ることができるのはいつだろう。その時まで許さんは元気でいてくれるのか。帰国の日、台北の友人に「もし機会があったら許さんを訪ね、いつか必ず会いに行くと伝えてくれ」と頼んだ。友人にそのような「機会」などありそうもないが、とにかく約束は破りたくないと言う一心だった。
それから二年後、再び台北を訪れた私は時間を作り、北埔へ向かった。驚いたことにその街は折柄の観光ブームで賑やかな観光地に様変わりしていた。許さんの店も改装され、土産物屋になっていた。そこで店の男性に「許さんは」と聞くと、「それは私の父ですが、今年亡くなりました」と告げられた。
「遅かった」と思った。団体客への対応でてんてこ舞いの息子さんとはそれ以上の話もできず、私は店を後にした。
数ヵ月後、私は友人たちを台湾観光に案内した際、北埔の史跡にも立ち寄った。勿論それには「許さんにはせめて線香だけでも」との思いもあった。
僅かな時間を利用して店に辿り着くと息子さんがおり、「あっ、あの時の日本の方ですね」と言って、すぐに居間の仏壇に案内してくれた。私が名刺を渡すと、「これは父の遺品の中で見たことがあります」と言われた。やはり許さんは待っていたのだ。遺影の前で涙が止まらなかった。
戦後世代の息子さんは笑いながら、「父は日本人でした」と懐かしそうに言った。それによると、日本時代には学校も出たインテリだったのだが、敢えて戦後社会には順応しようとはしなかったようだ。そしていかにも「日本人」的な頑固さで、病気になっても治療を拒否し、そのまま亡くなったのだと言う。
やはり男らしい人だったのだ。例えこういう形でも、「日本の男と男」の約束を果したのだから、許さんはきっと良しとしてくれるに違いないと思った。
いつかまた息子さんを訪ね、もっとゆっくりと許さんの話を聞きたい。そして私の許さんへの思いも息子さんに伝えたい。その日を私はとても楽しみにしている。
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本稿は二〇〇六年頃、そのような想いで書いたものである。友人が保存していたので、下に公開したい。
台湾の頑固親父との数分間の出会い

新竹県北埔はいまでこそ客家文化で知られる観光地だが、かつて日本人など訪れない寂れた
田舎町だった頃、私はある老人と出会った
日本統治時代に教育を受けた台湾の老世代の日本贔屓は有名で、日本人と出会えばしばしば嬉しそうに日本語で話しかけてくる。こうした「親日」ぶりに日本の多くの人が感動する一方で、「植民地支配を受けたのに、なぜ」と戸惑う人もいる。この「なぜ」について色々と話を聞いて見たが、その理由にはどうも、この世代の何ともいとおしい「戦後事情」もあるらしい。
終戦後、中国の蒋介石政権の時代となると、言語から価値観に至るまで、それまでの日本的なものは徹底的に否定され、例えば人々の日本語での知識、教養は役立たなくなり、家庭でも戦後世代との間で様々な溝が生じた。だからまるで外国社会にでも投げ出されたかのような彼らは日本人を見るたびに、「同胞」が来たと懐かしむのだと言う。
そのような一人に私も六年前に会っている。台北から長距離バスなどを乗り継いで三時間ほどの田舎に北埔なる寂れた小さな街があり、そこへ史跡巡りに出かけた時のことだ。
街を一巡し終えた私は台北へ戻るべくバス停に行くと、まだ発車まで五分ほどある。そこで飲み水を買いに近くの古びた雑貨屋に入った。中国語で人を呼ぶと、薄暗い店の奥からおじさんが出てきた。
そこで私はすぐに日本語に切り替えた。その人は顔の表情と言うか、身のこなしと言うか、まさに「日本の頑固親父」の雰囲気があり、その世代だとわかったからだ。
こうして日本語での会話が始まった。私が「あの丘の上は日本時代の神社跡ですね」と聞くと、おじさんは当時の街の様子を詳しく説明し始めた。
だが間もなく発車時刻である。そこで私は咄嗟に名刺を差し出した。何もせず別れるのは何とも惜しかったからだ。何しろ異国のこんな田舎で「同胞」と出会えたのである。
それはおじさんも同じだったようで、「名刺を出すからには、また来ると言うことだな」とつぶやいた。そこで「必ず参ります」と約束し、そこを離れた。許さんと言う人だった。
しかし次に来ることができるのはいつだろう。その時まで許さんは元気でいてくれるのか。帰国の日、台北の友人に「もし機会があったら許さんを訪ね、いつか必ず会いに行くと伝えてくれ」と頼んだ。友人にそのような「機会」などありそうもないが、とにかく約束は破りたくないと言う一心だった。
それから二年後、再び台北を訪れた私は時間を作り、北埔へ向かった。驚いたことにその街は折柄の観光ブームで賑やかな観光地に様変わりしていた。許さんの店も改装され、土産物屋になっていた。そこで店の男性に「許さんは」と聞くと、「それは私の父ですが、今年亡くなりました」と告げられた。
「遅かった」と思った。団体客への対応でてんてこ舞いの息子さんとはそれ以上の話もできず、私は店を後にした。
数ヵ月後、私は友人たちを台湾観光に案内した際、北埔の史跡にも立ち寄った。勿論それには「許さんにはせめて線香だけでも」との思いもあった。
僅かな時間を利用して店に辿り着くと息子さんがおり、「あっ、あの時の日本の方ですね」と言って、すぐに居間の仏壇に案内してくれた。私が名刺を渡すと、「これは父の遺品の中で見たことがあります」と言われた。やはり許さんは待っていたのだ。遺影の前で涙が止まらなかった。
戦後世代の息子さんは笑いながら、「父は日本人でした」と懐かしそうに言った。それによると、日本時代には学校も出たインテリだったのだが、敢えて戦後社会には順応しようとはしなかったようだ。そしていかにも「日本人」的な頑固さで、病気になっても治療を拒否し、そのまま亡くなったのだと言う。
やはり男らしい人だったのだ。例えこういう形でも、「日本の男と男」の約束を果したのだから、許さんはきっと良しとしてくれるに違いないと思った。
いつかまた息子さんを訪ね、もっとゆっくりと許さんの話を聞きたい。そして私の許さんへの思いも息子さんに伝えたい。その日を私はとても楽しみにしている。
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